2023年7月20日 

 再録:台詞の背景(1)津田さんと大間さんの芝居

 

中央

「水辺にて」のダ君とツ君の遊びの場面。左・ツ君(津田タカシゲ)、右・ダ君(大間剛志)  

 
 
 以下の文章は、去年(2022年11月頃)の「水辺にて」の稽古中に、現場の俳優さんへ、演技表現についてわたしの気が付いたこと、思っていたことをLineで送ったものを再録したものです。意味内容の変更はありません。誤字脱字、意味が通りづらい箇所をできるだけ読み易くしたもので、新しく大間さんのことを加筆しました。
 
 
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津田さんへ……、
 
 芝居の台詞についての、わたしのじしんの趣味嗜好を書きました。そんなこと判ってるわいと笑いながら読んで下さい。書いた内容は、主に表現の技術的な問題です。
 
(1)「四景:風の歌い手」の場面の二人の台詞の掛け合いの箇所ですが、登場人物として相手方の大間さんの「ダ君」の台詞がなければ、津田さんの「ツ君」の台詞が出せない箇所、同様に逆の場合もありますよね。そういうのって台本上に沢山あります。
 例えば、「ツ君」(津田さん)の「突然、怒り出すんだから」という台詞は、と「ダ君」(大間さん)との抜き差しならないの関係のなかから、「ツ君」の本音がふと独り言のように湧いて出た感じのイメージの声ですが、でも、その台詞をリアル(心理的)にとって小さな声で表現する必要はないです。わたしの台詞には、そんな修練・努力は不要で、津田さんの本来もっている普通の声でOKです。笑って喋ってもOKです。
 芝居の場合の他者とは、相手役の大間さん一人ではなく、観客という大前提の他者を含むものとして考えて下さい。大間さんと観客にも聞こえる適度な声であればOKで、これは芝居(有観客である)の形態上の矛盾の一つです。
 
(2)台詞のリズムとトーン、メロディの問題
 「声にオレらの人生体験貼りついてっから……渋い!」という導入部の台詞は、声の強弱や流れ、唐突な声(発声)から、やがてやってくる二人の「なぜ(強調)、(「お客さんに」)受けない!」というオチを誘き出すための助走なんだと簡単に考えてくれるとありがたいです。それらの台詞も心理的な解釈も不必要です。この箇所は、短い導入部と<落としどころ=ツメ>との部分から成り立っていて、オチの場所へじぶんたち二人をどうやって導いていくか、<遊び>の掛け合いとして、それに集中し愉しんでくれたら面白くなっていくと思います。
 
 俳優の声によって喋られる台詞には、不可避的に声音(呼吸+声帯:音韻+韻律)によりリズム、トーン、メロディ、声音の強弱等が自然に発生・付着してきます。
 台詞の要素は、(A)指示表出性(台詞の伝達的意味性、観客への意味・価値への喚起作用。いわば樹木の葉っぱの部分)と(B)自己表出性(観客の笑いや拍手を求めない、観客の見返りを求めない俳優の無償の価値の表出。樹木の幹や根の部分)、その二つの要素から成り立っています。自己(価値)表出は、演じて手だけが解っていれば、それでいいのだと思います。演者(俳優)だけにしかわからない表現への達成感(対自作用)が出てくればOKで、これは、厳密で正確でごまかしがきかないもので、それを告げるのは自分自身対してよりほかに何の意味もないことです。
 でも、お客さんは、そういう俳優の独特な演技(=自己表出性)、『この俳優の特異な演技表現は、お客さんはたくさん見に来ているかもしれないけど、おれ一人ぐらいしか彼の演技表現の秘密の思いと苦労は判らないだろうな』と、観客は思い込みたいのです。漱石の小説は、そういうところが沢山あるから読者は、彼の小説の記述の偏りを好んで読むのだと思います。
 
(3)二人で川に向かって同時に叫ぶ台詞ですが、二人の台詞がシンクロしないのであれば、「オーイ」と「そっちはどうだ」という台詞を壊して、一人一人に分けてしまってはどうでしょうか。それくらい稽古を気楽に考えて下さい。
 
(4)津田さんと大間さんとが埋められていないところを一つ挙げれば、「と書き」の《遊びの泳ぎを止め、真剣な顔になる》という箇所です。この動きを心理的に真面目(リアル)に考えても詰まらないものなってしまうと思います。わたしたちの日々の繰り返しの生活のなかのリアルさなんて、偏奇な眼で探さない限りもうどこにも見つかりません。何処から何処までが現実感=リアルで、何処から何処までが反リアルなのか、わたしなんか現在の社会の風俗の力に浮かされて、その違いを識別できないでいます。「身体の無意味さと想像力の空しい遊びだぜ」ぐらいに思って、心の底でじぶんを笑いながら「怖い顔+力強い動き」を演じて愉しみながら作って下さい。
 わたしたちはいま、何処から何処までがリアル(日常)で、反リアル(非日常)なのか、その二つが溶け合い、滅茶苦茶になった世界を生きていて、その上でその滅茶苦茶を<表現=表象>化しなければならない難しい未知の場所へ連れて行かれています。
 子供の頃、はじめて泳ぎを覚えた瞬間のように、水の中で足の着かない少し深めな場所に歩んでいき、滅茶苦茶やって、じぶんが水に浮かされた時のあの苦しい感じを思い出すと、もう一つの水との遊び方ができるのと同じことなのかも知れません。かなり困難ですけどね。リアルと反リアルとは分かち難く現在の風俗は結びついているように思います。
 
 
 
 津田さんの不思議な演技の育み方。或いは津田さん流の愉しく空虚な無駄な努力。
 
 わたしのほとんど見当違いにちがいないと思うけど、稽古場で素朴に感じたことを書きます。
 
(1)ダ君 三橋美智也さんの「達者でな」、星野源さん、唄ったらどうなる?
   ツ君 (実際にやるがやれない、笑い)星野源さん、唄わないしょ、
 
(2)ダ君 宮中とかでさ、天皇陛下とかが年始に歌会始めとかやるでしょ畏まった歌い方、
   ツ君 (なんとかやる)「東風(こち)吹かばにほひおこせよ梅の花……」
   ダ君 「「この味がいいね」と君が言ったから七月六日はサラダ記念日」。俵万智さん、
   ツ君 (やる)「この味がいいね」と君が言ったから七月。……いつまでやらせるの!
 
(3)ダ君 ……じき五十。……五十年、オレ、何してきたんだろう……、
   ツ君 (踊り)……ナーバス、ダメ。……突然、怒りだすんだから。
 
(4)ツ君 人生に成功したヤツなんてみんな嘘つき。でしょ? そう思おう。……ダメモトで、コツコツやろう。年下兄貴が、チャラ男の希望!
 
 
 (1)~(3)の稽古場で始めて津田さんのダンスもどきの遊びの楽しい表現を見とき、津田さんのダンスには構成の要がすでにできあがっていて、約一分間ほどの時間だったけど、完璧に近い津田さん独自の遊び方をわたしたちは大いに堪能させてもらいました。演出に急に言われて、なぜそんなことが、いきなりできてしまうのだろうか、津田さんの演技に対する発想がわたしにはまったく未知のようなもの、この人は月より来た「月光仮面」じゃないのか、そんな驚きの感じで稽古を見ていました。
 また(4)の台詞は、津田さんは普通の声で淡々と発語していたのを、いまでも感心しながら稽古場で聴いてたのを覚えています。
 
 二年ほど前、シゲキ君のトイレ掃除の場面を、津田さんに演出をお願いしました。津田さんは、じぶんのトイレ掃除に関してのこだわりを二、三種類、クローズアップして、それをコラージュ風に演じていました。津田さんは、清掃の場面の表現時間には必要・不必要(取捨選択)となにをクローズ・アップするのかの作業をすでに終えていて、シゲキ君のほうは、掃除の全体をきっちり丁寧に演じてくれていました。良い悪いは別にして、どっちが見ている側に強く深い印象を与えるのか、すでに決まっていたように思いました。
《表現時間》《=俳優さんが演技している時間と簡単に考えて下さい》は、日常の生活の時間とは違います。古い例えですが、沢田研二が豆電球を背後に背負って「TOKIO」を唄っている時間と同じイメージ表現の時間ですから、俳優自身の取捨選択力(俳優の文体、あるいはイメージの価値付与力といってもよいかもしれません)は極めて重要な意味合いをもっていると思います。
 
 
 津田さんの演技の育て方について感想を述べてみたいのだが、わたしに言葉が無いのです。曰く言い難いのです。思うに、津田さんは、じぶんの演技を大空高く飛ばし、演技の高度化を狙う(志向)なんてことはあんまり気にしていなくて、靴を脱ぎ、裸足で足が汚れるのも気にせず、地べたを子供たちが楽しそうにリズムを踏んで遊んで歩いている感じがしました。その遊びの大きな要は、一見日常的に見えるのですが、やはり津田さんによって構成された演技(反リアル)の風貌をすでに携えていて、舞台(表現者としての俳優さん)と日常(暢気な普通の中年男津田の小父さんがサケ茶漬けを食べている姿)との境界を自由に往還することができるような仕組みを身につけていて、ああ、これは、津田さんが長い生活のなかで時間をかけて育んできた演技の志向(遊び方)なんだな、わたしはそんな津田さんをちょっと驚いて、見ていました。
 
 俳優は、普通だれでも演技が上手くなりたいと考えます。けれども津田さんは場合、演技は上手くならなくともOKで(上手くなることができるのなら、それにこしたことはないけど、でも)、時々に心を過ぎっていく瞬間の<心理>の状態(じぶんが社会・風俗に浮かされ、戯けていく感じ)を大切にし、子供のように遊べれば、観客のほうも「オレも、子供の頃、そんな遊びをやったことあるよ、足をどろんこまみれにして、あとで親にこっぴどく叱られるんだけど」という共感を得ることができる、そんな確信をもっていて、表現に向かっている感じがしました。
 
 でも、こんなわたしの言葉はインチキで、そんなこと、本当にできるのだろうか。わたしには、ここまでしか解らないのですが、津田さんの不思議な演技の育み方に脱帽し、その謎が宿題のように残っていて、なんとか解いてみたいと思って書いています。
 
 たぶん、津田さんは(普通に生活している人のだれでもそうですが)、ごじぶんの日常の生活層での眼に触れたもの、触目への特異の愛着(哀惜)の仕方やこだわりがあって、その特異さが<遊び>の再現力とその構成力を生んでいると思います。当然、生活層での触目への驚きは、誰でもがもっているものですが、津田さんの場合、たぶん残像画(日常の生活で眼にしたり、聴いたりした社会的な動向への深い苛立ちも含めて)の保存の仕方に特異性があって、それが表現の場で先鋭的にイメージ化するのかな(じぶんの身体の戯画化?)。それは彼の資質に基づくものなのか、じぶんで築いてきた志向性なのか、いまのところわたしには解りません。でも、これは、いちばん心の柔らかい箇所の問題であり、ご当人も、たぶん、ごじぶんの演技システムを深く自覚化しているわけではなく、これはだれでもそうですが、意識と無意識が混じり合い一体化しているのだと思います。こんな当たり前のことしか、いまのところいえません。
 
 
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    大間さんの場合
 
 
 ツ君  アッ! 胸に白髪、
 ダ君  ……じき五十。……五十年、オレ、何してきたんだろう……、
 ツ君  (踊り)……ナーバス、ダメ。……突然、怒りだすんだから。
 ダ君  ……(急に怒る)オレが、いつ怒った!
 ツ君  ホラッ、怒ってる!
 ダ君  ……キンタマ一つ無いから軽いんだ! ……チャラ・チャラ男!
 ツ君  「キンタマ一つ無い。チャラ・チャラ男」。オイ! (ダ君の胸毛をつかみ)その言葉、口にしたらもうお終いだ!
 
 大間さんの「(急に怒る)オレが、いつ怒った!」は、とても良かったです。大間さんは、きっと基本的にはまじめな人で、演技に対して本格的と呼べる志向性が強い方だと思います。大間さんの演技と、津田さんのダンスの遊びの演技《表現時間》は双璧だったと思っています。
 
 わたしの演技表現についての思いは、実に単純で「徒労(無駄な空しさ)」に尽きるのだと思います。文学も、芝居も、焼き物や美術等の世界も「徒労(無駄な空しさ)」無くしては成り立たない手仕事の世界です。その手仕事を持続的にやろうと試みるか、やらないで済ますか、その違いがだけが芝居(演技・俳優)の本質的な孤独として、舞台にほんの少しだけ顔を現し、わたしたち観客は、そこに、俳優さんの独自な工夫、つまり<他者を惹き込む力と必然>の客観的な契機が生まれてくるのだと思っています。そして大間さんの「(急に怒る)オレが、いつ怒った!」は、観客には、声音で識別する(見る)演者の<顔>となって表出され、観客(他者)を惹き込んでいったのだと思います。声音は、第二の《顔》です。
 
 
 面白半分に、もうひとつだけで「俳優さんって不思議だな」と思っていることを書いてみます。
 じぶんはこれまで芝居の台本を書いたり、演出の真似事をしたりして、70歳を過ぎたことだし、毎回変わり映えのしない台本しか書けないのだから、もういい加減に芝居から手を引いたらどうかと思うときが最近稽古場でよくあります。そして、毎回のようにわたしの台本に出演してくださる俳優さんに対してすまない気持ちを抱いて稽古場に向かっています。
 
 俳優さんは、舞台上で、なぜ、わざわざじしんの心と身体のバランスを崩すような苦しいことまでして芝居を続けようとしているのか。その理由はなんなのか? どこへ行きたいと思っているのか?
 
 芝居(演技)が上手くなりたいからか? 芝居(演技)が上手くなるとは、ますます精神の病いの世界へみずから進んで入り込んでいくことを意味していて、俳優さんの精神の水平性が損なわれ、精神の垂直性(こんな言葉しか思いつかない)が台頭してくる病いのことです。
 
 津田さんの「キツネのダンス」の繰り返しの稽古も、大間さんの「(急に怒る)オレが、いつ怒った!」の呼吸の困難さの稽古も、俳優自身が、じぶんの心身の水平さを損ない、垂直性だけで生きようとするアンバランスの世界へ望んで入ってしまったもので、そこまでして、なぜ芝居を続けるのか?
 俳優さんじしんの演技の核心部分は、たぶんお客さんには判らないと思います。けれども、俳優さんじしんにはリアクションとして戻ってくる小さな達成感が生成されている筈です。それは、俳優さんじしん(わたしも含めて)がじぶんの手でじぶんの<生>を慰藉していることへ自然に繋がっているのではないでしょうか。もし、それが真実であるのなら、芝居もそれほどでまだ見捨てたものではないな、と最近は思っています。そこが、現在の稽古場の主戦場の一端を担っている芝居の場所の一つだと思います。

「テレビで清水(たぶん清水宏保(しみずひろやす)のことだと思う:注・菅間)という氷上スケートの世界新記録保持者の練習ぶり、試合ぶりを視聴したことがある。痛み止めの注射を十数本打って優勝した様子が放映されていた。
 何のためにそんな無理をするのかと問われたら、記録保持者のほこりを保つためと答えれば意味づけることができよう。それでもなお「そんなにまで無理をする価値があるのか」と問われたら、たぶん持続の過程を理由もなく休停止する根拠がないからだということになるような気がする。
 人間があらゆる事柄を持続するのは、その事柄が意味と価値をもっているからだ、と答えられるのはいいことだ。 ……吉本隆明『自転車哀歓ー日々を味わう贅沢』」

 
 わたしはいまでも拙く貧しい芝居を書いている。でもよく考えてみれば、わたしなどが若い時代に夢にまで見た『これがわたしの芝居の原像のイメージだ』と考えてきた芝居から、現在、時代の遠心力で果てしもなく遠くの方へ吹き飛ばされてしまって、驚くほど遠い場所、火星の地下深くで芝居を書いているみたいなものだ。
 
 わたしの台本に登場する人物は、わたしじしんが当然モデルとなって、登場人物はすべてわたしの分身に近い。
 そんな人物たちの二人が「ダ君」や「ツ君」で、「いまはサ、誰一人いない土手の草むらで歌でも唄って、元気になろうヨ」といかにも絵に描いたようなお粗末な人物像を描いている。けれどもひょっとしたら、河原の冷たい風が吹く寒い場所で、現在のような窮屈な世界からもしかしたら脱出できるかもしれないという蝋燭の灯りより頼りない心細い魂を、彼らは二人は棄てていない存在として彼らを描きたいと思っている。
 
 わたしたちの舞台は、約一時間二十分ほどの表現行為によって作り出されている。その僅かな一時間二十分ほどの表現の時間を作り上げて、わたしたちは、お客のみなさんを、何処へ連れ出して行くことができるのだろうか。
 ある表現時間をお客さんに体験してもらい、まったく未知な世界へお客さんを連れて行くことが、芝居のかつては楽しみであり醍醐味で、わたしもそのような芝居を作ろうと願望していた。でも、現在の情況(どんな優秀で才能のある人が書いたとしても)では、そんなことはもうほとんど不可能だ。<意味>と<無意味>がと同じ重さになってしまっている現在の情況から、離陸する術を血眼になって探しているのだが、だれもが探せない状態になっている。
 つまり、わたしたちが芝居を作り、お客さんが見に来てくださるなかで、わたしたちが作っていることは、不可能であることを可能にしようとすることではなく、不可能である現在の情況をそのままお客さんに見ていただくよりありえなくなっていることを自覚化するなかで、現在の<意味>が発生してくる秘所を探し、その秘所を描き出す文体を構築してゆくことだ。これは、後退であることに間違いはない。けれども、それを受け入れざるをえないと思っている。
 
 最後に、「ダ君」と「ツ君」の<歌=SHOW>について、感想を述べます。
 ふたりの<歌>は下手です。けれども、わたしは好きで、いいと思っている。二人の<歌>の下手さのゴツゴツした手触り感が、わたしたち普通に生きているものたちの生活感性へ確かな手触りとして<なんだ、これ、すごい下手な歌じゃねえか!>という感性で伝播されていく。これは、芝居が、お客さんとわたしたち普通に生きている人びとの生活に関わっていこうとする初歩的な芝居の現在的な特異な、なけなしの感性の一つだと思って、稽古をずっと見ていました。
 
 「ダ君」と「ツ君」との「歌=「達者でな」三橋美智也」の場面に、もし仮に、場面としての若干の自立性が存在しうるとすれば、やはり「歌」のメロディ・歌詞・テンポ・演奏の背景がそれを大きく補償していることは確かなことだ。では、俳優はその「歌」のなかで、なにをなしているのか。なにもなしてはいないではないか。歌い方への特異的な工夫もなく(これは書き手、演出も含めてだ)、ただ曲を背景に歌をうたっているだけではないか。台本に書かれた俳優の形象の位置での意志的な自己主張の台詞もないではないか。そう思われるかも知れない。
 二人の俳優の人となりは、息継ぎ、声音の度合い等の客観的な高いポテンシャルの維持を活き、歌曲のなかへ融解されてしまいっているようにみえるが、呑み込まれているわけではない。俳優の残りの半姿、俳優としての<個>は、「達者でな」の場面のなかで<軽重>を厭わないイメージの存在となって舞台に確実に存在していたと思う。
 
 
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〔発声される音声としての言語〕
 
 三景の「最後の断酒のできない断酒会」で、いきなり稲川さんが演じる「実子」が「ここに幸あり」を低い声で歌いはじめる。
 
   嵐も吹けば 雨も降る
   女の道よ なぜ険し
   君を頼りに 私は生きる
   ここに幸あり 青い空
 
 俳優は、なぜ「低い声」で歌いはじめることを選んだのか? 「低い声」は、わたしたち人間に、なにか共同的な<意味及び情緒>の心的な変化の喚起をもたらすのか? では話題を少し狭めて、わたしたちの舞台で、「低い声」は、歌をうたう人と聴く人の間で、どのような聴覚的な喚起(波及効果)を促し、心的情緒にどのような情緒の変化をもらたすのか? 無知なわたしにはなにも言えないが、演劇はこの課題、〔発声される音声としての言語〕という課題にいつかは入っていかなければならないはずだ。
 
 
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